昭和48年05月02日 朝の御理解



 御神訓 一、「慢心が大けがのもとなり。」

 慢心と安心は紙一重と言われております。私共が安心しておると言う事が、既に慢心の場合があるのです。先日から頂いた安全感という。それが安心とこう思うておる。所謂そこに油断をしておる。油断をするからおかげを落とす。いわゆる怪我の元。「生兵法は怪我の元」と言う様な言葉もあります。なまじっか少し剣道なら剣道をかじる。なまじっか少しばかり柔道が出来る。
 空手が出来るというと、平気で人に喧嘩を売ったりします。自分より弱い者ばっかりであら良かけれども、間にはやはり達人名人という人がおってやられる。かえって生兵法は怪我の元。ですから信心も、これで分かったとか、ここを体得したからというのは、もう既に慢心だと思うです。そこで今私共はいつもが稽古中ですから、いつまでたっても安心のおかげが受けられないと言う事ではないですけれども。
 まぁ私共は信心をかじっておるというか、いうなら生兵法の程度にしか信心を分かっていないと思うておる事。それが私は、怪我をせんですむ、おかげを落とさんですむと思うです。自分の信心で、おかげを頂くと言う様な思い方ではない。金光大神のお取次のおかげで、信心は出来んけれども、おかげは受けておる。一生懸命参ったからおかげ頂くというても、一生懸命参ったのではない。
 参らされておるのである。と言う様な私は頂き方がですね、慢心を慎ませて頂く者の、いつも心に掛けておらなければならない心掛けだと思うです。ここでお届帳が他所の教会では、お届帳というのは御神前にお届けする帳面ですから、御神前だけしかお供えしませんけれども。ここでは必ず私は、お届帳をまた御霊様の前に、お供えをしてから改めてお願いをさせて貰う。例えば大祭を仕えるでも、他所では御霊様へ御挨拶は御大祭がすんでからというのが、普通の通り相場です。
 所がここの場合は、御大祭前に必ず御霊様に御祈念をさせて貰うでしょう。これは私が慢心してはならんという、いうならば心がけの現れがあのようになるのです。今日も例えば御大祭を仕えさせて貰いますが。いわゆる大神様達いわゆる霊様達の御神慮、御神徳によってどうぞ私を使うて下さり、御用に使うて下さって、御大祭を奉仕させて頂きますというその積りなんです。だから御大祭前に、私は御霊様にお縋りをする訳なんです。お届帳でもやっぱりそうです。
 日々のお届けお取次を、金光大神のお取次を頂かせてもろうて、お願いをさせてもらうけれども、それでも私くらいな者の取次者がお取次の手代わりをさせて頂くのですから、矢張り心もとない。それで先覚の先生方、私のおかげを頂いておる代々の先生方の御霊様に御すがりをさせて頂いて、いうならば完璧を期すというですか。先生方のお働きをお力を頂いて、お取次をさせて頂くというのが、ここではお届帳が御霊様の前にもお供えされるわけなんです。
 それだけの事をしておるから慢心がないかというと決してそうじゃないです。本当にどこの端からか、やはり慢心で一杯である自分を気づかせて貰うて驚く事があります。最近、昨年でしたか、若先生の部屋に、白蟻が沢山出たそうです。それでそれを殺虫剤で殺してしもうたのは良かったけれども、殺虫剤をしたもんですから、それが移動をしてから今、風呂場の所に沢山出るんです。それで白蟻の駆除をされる本職の方にお願いをして、色々見て頂いたんですけれども。中々あれは巣を見つけるのが難しいそうです。
 それで話に聞きますと形の上に於いては一つも変わらんけれども、何か風があったとか何かの時にドサッと天井が落ちたり、家が倒れたりするそうです。中を喰ってしまう。此の頃聞きましたらもうセメンでも何でも喰うそうですね。白蟻というのは恐ろしい。だからそういう今までかって無かった様な事が合楽の教会にこうやって白蟻が出るなんて言う様な事が只事とは思われない。成程今はこうやって、ある意味合いでは隆々とした御比礼の元におかげを頂いておる。
 本当に信心も出来んのに勿体ないと、口では言うておるけれどもです。これは信心の私を中心にする合楽の信心に白蟻がついとると。自然と申しますかね、神様はお知らせ下さりよるのじゃなかろうかと思わせて頂いて、改めて自分の信心を反省させて頂く訳でございます。ですから私共が本当に、慢心くらい見苦しいものもないし、同時に慢心は今日の御理解頂きますと、大怪我の元になる仰るのですから、私共が本気で慢心をしてはならん。慢心が出てはならんという心の状態。
 そこで私共がですいつも思わせて頂かなければならない事は、例えて申しますと、お日参りが出来ておる。お日参りが出来ておると言う事にです、例えば、慢心を起こす様な事もないでしょうけれども、矢張り自分は五年続いた、十年続いたもう二十年も続いておるという人も、合楽にはいくらもおられるわけです。けれども私はそういう場合ですね、成程お参りはさせて頂いて、辛い所も辛抱させて頂いて、辛抱しぬかせて頂いたんですけれども。私は本当に難儀様のおかげでです。
 信心が出来ますと言った様な頂き方は有難いと思うですね。矢張りその難儀という事に対してでも、それに様をつけるような心掛けです。難儀様のおかげで、お日参りが十年も二十年も続かせ頂いた。もし私に難儀というものがなかって、結構なおかげを頂いておったら、恐らくそのような信心を続ける事は出来なかっただろう。難儀様のおかげでという難儀様という、難儀の実態というものがです。
 如何に天地の親神様のお心であり、神愛の現れであるかというを体得出来て、私はおかげを頂いたらです。不思議な事にです、少しおかげを頂いて、食べる事には事欠かんようになった。家も立派に建った。地所も買わせて頂いた。商売も順調にいってくると、例えばいうごとなるとですね、不思議に信心の方ば、疎かにする人が普通です。だから私は合楽で皆さん、いうなら信心辛抱が出来ておる方達は、いうなら難儀様のおかげで続いておるのだと思うです。
 だから難儀を感じておる事に、様をつける程しの事ですから、それが御神意であり、神愛であると分からせて頂く。いうならばいわゆる大和心ですよね。一切の事にお礼が言えれるような心。そういう心の状態がです。私は頂けた時に始めて有難い。今日私御神前で、大きな船に乗っておる。それがそれこそ浅い所は竿で差し、深い所は櫓を使うと言う様にして下さってあるんですけれども、それをこちらの上の方から長い竿で、こうやって突いておる様な所を頂いたんです。
 結局どう言う事かと言うと、自分は地上におりながら船を動かそうとすて、いや自分を動かしておるんだと言う様な、考え違いをしておるような感じでした。いうなら自分が漕いで船を動かしておるかのように思うておるという様な事です。金光大神がちゃんと、金光大神のお徳の船に乗せて頂いて、おかげを頂いておると言う事を忘却しておる。信心のいうならばおかげを頂く、一つのコツ合いとでも申しますか。信心を体得しだからそれで自分はおかげを受けておると言う様な考え違いをしておる。
 神様のおかげでという心がなくなっておる。それがいつの間にか、いうなら白蟻がついておるようにです、中が空洞になってそれこそアッという間に天井が落ちてしまうと言った様な結果になるのです。私共が如何におかげを頂いておっても、私の信心でおかげを頂いておると言う様な思い方が出来るのは、もうそれこそ竿の使い方も、又は櫓の漕ぎ方も、本当に体得出来た時に、始めて生まれるのが安心。いわゆる大和心。一切の事柄にお礼が言えれる心。
 そういう心のまだ頂けてないならばです、私共はいつも神様の、あなたのおかげでというならば、難儀様のおかげでという心がけが大事だと思うです。今日は慢心が大怪我の元という、この御神訓を頂く前に、私は御神訓の「神」という字を頂いたんです。神という字は示すという字を書いて申すと書いてある。又こちらの金光大神御理解抄には、神という字を片仮名のネを書いて申すと書いてある。どちらもやっぱり神様だ、神という字です。だから神というのは、神様が示して下さる事。
 それを私共が受け賜るというのが信心です。金光様の信心は。神様が示して下さる。それを承るというのが氏子の方の姿勢である。そすと今度は、いわゆる片仮名のネを書いて申すという事は、私は今日その次に慢心は大怪我の元と言う是を頂いだから思ったんですけれども。いうならば寝てから申すと言う事。寝ながら申す寝ながら言いよる。いうなら楽をしながらお参りもせんどいて、陸上の方から船を動かしよると言った様な、そういうあれやら是やら頂いた事から総合してみてです。
 というのなどはです、もう愈々これは慢心しておる証拠である。おかげも下さるけれども、おかげを頂いておるうちにです。様々と神様はあの手この手で、さあ気つがせて頂けよ、気づかせて頂けよという、お気づけはいつも頂きよるのだけれども、気がつかん。そして慢心が溜まり溜まって、大怪我の元になると言う様な事になってはならんというふうに頂いたんです。だからそんなら修行させて頂いておかげを頂く。
 そんならその修行もです、いわゆる難儀様のおかげで修行が出来ておると、その難儀様にお礼が言えれる心。そういう心が、自分達の信心の内容になってくる。そこからですいうなら、昨夜のお説教の中にも申ましたように、降っても照っても又はそれは吹いても、有難いとお礼が申せれるような、心の状態が開けてくる所からです。安心の大みかげが頂かれる。それで始めて安心だと。
 私共が安心と思うておるのは、安心のような安心であって、いうなら安心と慢心は紙一重であって、慢心が私を安心のような状態に置いておるのではないかと言う事をです、私共が心掛けさせてもろうとかなければならん。安心と慢心は紙一重。いわば本当の安心でない証拠にです。例えばそんなら、大和心ではない。あれにもこれにも一切の事にお礼が言えれる心がまだ開けていないとするならばです。今私が安心しておるようなのは安心ではなくて慢心だと。
 そういう心が溜まり溜まって大怪我の元になると言う様な、どこまでも信心はあなたのおかげで、それは難儀そのものに対しても、様をつけさせて頂くような、私は頂き方がです、やや間違いのないそれでもまぁだ、まぁだですけれども、間違いのない信心の進め方が出来て、これでよいと言う事はない。限りない信心を進めて行く事が出来る。生兵法は怪我の元。信心も生かじりではかえって怪我をするような場合がある。
 そこで私共はです、私の信心でおかげを受けるのじゃない。金光大神の信心も出来んのに、この様なおかげを頂いてと言う所に、勿体ないという心が生まれてくる。私共の信心生活から、勿体ないと言った様な心の状態が薄れてくる時には、もう既に慢心だと気づかして頂いて、もういうなら白蟻がついてる時と思うてです。その根である所の巣の元をです、正させて貰うて、おかげを頂いて行かねばならんと思うですね。
   どうぞ。